今さらホリエモンの罪状を議論すること。

昨日から、堀江受刑者が無罪であるかどうかという議論が成されている。裁判で刑が確定した受刑者の罪状を今さら議論することに、どんな意味があるのだろうか?

堀江受刑者は、刑が確定してからも自分が無罪である、若しくは自分の犯罪行為に対して刑罰が重すぎると考えているらしい報道が何度かなされた。
Twitterで署名を集める運動などもしていたようだ。細かい顛末は知らないが、最初に聞いた刑期が変わっていないようなので、効果はなかったのかもしれない。

そんなこんなをやっているうちに収監になった。堀江受刑者は頭をモヒカンにして、モノポリーというゲームのデザインをパクったTシャツを着てマスコミの前で笑顔で収監されていった。

そのニュースの後で、堀江受刑者を擁護する内容のブログ記事があがり、注目を集めた。
内容的には無罪であると訴えた堀江受刑者が言ったことをブログ著者が噛み砕いて説明したといった感じの文章だ。
自分は堀江受刑者に興味が無いし知識もないので、その論理に正当性があるかどうかはわからないが、堀江受刑者が使った論理で、裁判で否定されたのだとしたら、普通に考えて正当性があるとは思えない。

堀江受刑者を擁護するブログ記事があがってから、その擁護に対する反論のブログ記事があがった。この反論も、上記の擁護記事と同様に堀江受刑者の罪状などをよく知らないので、内容の正当性は読んだだけでは正しいのかどうか判らなかった。
ただ、擁護記事とは反対に裁判の結果が肯定しているので、類推するに、正当なのだろうと考えた。

現在は更に反論の反論のブログ記事が掲載されている。内容は専門的で、もう何が何やら判らない。

最初のうちは自分は、堀江受刑者のモノポリー版権侵害(かもしれない)Tシャツが何を意味することになるのかに興味があってリツイートしていた。ここに来て、この議論は何のために行われているのか、が気になったので、自分なりにブログ記事にしてみた。

まずは、堀江受刑者の立場に立ってみる。
彼は著書とブログと有料のメールマガジンを持っている。監修される前にも一冊出版しているし、獄中記も書きたいと言っていた記事を何処かで見た。メールマガジンも獄中から編集者を通して発行するといった発言を見た。堀江受刑者は自分が刑罰を受けることを間違ったことだと思っている。しかし国家権力によって決められてしまい覆すことができない以上は、状況を活用しようとしていると思われる。モノポリーのパクリも「すごろくゲームのルール上行動できない升目に不運にも止まってしまっただけ」と思わせる戦略だろう。モヒカンは話題性を出すためだろうが、内心未知の隔離空間で周囲を威嚇する効果を期待しているのかもしれない。
モノポリーや人生ゲームで、刑務所に行ったり罰金を払ったりすることが、「悪いこと」ではなく「不運なこと」として扱われているのは教育上悪いのではないか、とゲームをやるたびに思っている。だからモノポリーや人生ゲームを廃止しろと言う話ではないが、堀江受刑者のTシャツを見たときに、悪いように使われてしまって大丈夫なのかな、と心配もしている。
話はずれたが、堀江受刑者はマスコミを使って本の宣伝もできたし、自分が悪いのではなくて運が悪かっただけだという印象を与え、明るく前向きに監修されていった。

次に堀江受刑者を擁護する立場に立ってみる。
刑が確定してからも堀江受刑者を擁護する人々は、堀江受刑者が無罪であることを信じて疑わない。それはTwitterの署名運動であり、ブログ記事の擁護であり、堀江受刑者の書籍を購入することであり、メールマガジンを購読することである。
擁護に関して、堀江受刑者と利害関係があるから擁護するのではないかという論調も一部にあった。大きな意味、金銭だけでない利害関係で言えば、あったのだろうと推測できる。意見が合ったり気が合ったりというのも、精神的な利害関係と言えるならであるが。その気が合った、意気投合した人が一緒に仕事をして、金銭的な利害関係を持つことは、日本のビジネスでは十分考えられることだし、意気投合した集団が金銭的な利害関係を持った場合には、多少の金銭の害は目をつぶる場合がある。
そして、仲間として、友人として、潔白を信じるのは金銭的利害関係を超えて、理論ではなく感情として、行為ではなく行った人を信じるという、やや宗教がかった行為に近づく。
裁判所で否定された理屈を鸚鵡のように繰り返しているというのは、健全な思考ではない。
それでもブログ記事に書くということは、堀江受刑者と同等に刑罰に納得していないし、何らかの方法で覆すことができると思っているのだろうと思う。

そして、堀江受刑者を擁護する論に真っ向から対立する立場に立ってみる。
まずはじめに言っておくと、わかっていただいているかと思うが、擁護論に対立する人々の立場と、私の立場は似て非なるものであり、擁護論に対立する人たちに全面的に賛成しているわけではない、ということである。
堀江受刑者は様々な方法を使って「ピンチをチャンスに」しようと奮闘した。最終的に収監される時でさえ、服役後の事を考えている。そして、自分が悪いのではなく運が悪かった、もしくは世の中が悪かったと思っている。そのふてぶてしさが、ある人には前向きと捉えられるが、犯罪を犯罪と思わない態度や考え方に生理的嫌悪を感じたり社会正義をしら示したい思わせたりするのだろうと思う。罪の意識がない人間に受刑させても、改心することはないからこそ、罪の意識を持たせたがっているのかもしれない。
堀江受刑者に一番の打撃になるのは、堀江受刑者の著書を誰も買わなくなったり、メールマガジンを読まなくなったりする事であり、堀江受刑者が正しいという論理を崩し堀江受刑者に不信感を抱かせることが一つの方法だと思っているのかもしれない。
擁護論に対立する人々は、必死に理論を突き崩そうとしている。しかし、この理論を突き崩す事はできない。何故なら、擁護論は既に裁判で突き崩されているからである。突き崩された論を持って主張している姿はある意味で滑稽であるが、これほど強い盾もない。何故なら絶対に同じ土俵に上がらないからである。否、上がれないのである。そこにあるのは、「堀江」受刑者が主張した、という一点のみだからである。
最後の手段として、「堀江受刑者は収監された。正しい主張であれば何故罪を負わなければいけないのか」という議論はあるかもしれない。しかしこれは、最終的に「世の中が悪い」とか「前提が間違っている」とか「運が悪かっただけ」とかまあ想像がつくような答えで平行線にならざるを得ない。

最後に私の立場を主張してみる。
自分は冷静な第三者だとは思っていない。犯罪者には改心して欲しいと思っているし、堀江受刑者は刑が確定した以上は犯罪者だと思っている。しかし、堀江受刑者が真っ当な人間に成る為の手助けをするつもりもない。したがって社会正義を実行するのが仕事である人々に後は任せるし、堀江受刑者を信じている人に、信じることを止めさせたいとも思っていない。
話は少しずれるが、オウム真理教が犯罪を犯し教祖が収監され規模を縮小し名前を変えて生き残ろうとしている。オウム真理教から被害を受けた人や現在名前を変えたアーレフの近隣に住んで日々プレッシャーを感じている人は、オウム真理教の罪状を発信し続けたほうがいいのだろうか、それとも風化させ忘れ去られた方がいいのだろうか?オウム真理教の危険性を宣伝すればするほどオウム真理教の宣伝にもなってしまう。
堀江受刑者擁護の人々がいくら叫んだところで、大半の人が無視をして相手にしなければ終息していくかもしれない。どんな状況になるかはわからないが、堀江受刑者が自分の罪を心から認めて出てくれば、今ここで無駄に対立する必要もない。早く出たいと思えばこそ、従順になる可能性だってある。何しろそういう場所なのである。
もし仮に議論をするのであれば、堀江受刑者がどれだけ悪いことをしたのか、例えば他のわかりやすい犯罪だとどの程度の罪と同罪なのかとか、そういった内容を織り込んで行くことが戦略的に必要になってくるのではないかと思う。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ:

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です