記録が記憶の社会

インターネットが広まるまで日本人はテレビとラジオと新聞から日々の情報を得てきた。テレビやラジオは単純にユーザーからのアクションに乏しいだけでなく多くの選択をテレビ局やラジオ局に委ねている。日本人は多くの事を忘れていき、印象だけが記憶に残る。新聞はテレビやラジオよりユーザーの選択の幅は広く、文字情報として正確な情報が残るが、遡って記録を読み返す人は多くない。大半の人が曖昧な情報として記憶に残しているのみである。
結局のところ日本人はこの曖昧な情報をもとにして今まで選択してきたのだ。テレビやラジオや新聞が記録し世の中の悪を監視しているという安心感がマスメディアの情報の信頼性を維持していた、と言える。地域社会が人口集中によって崩壊しつつあったり、女性が自立することが社会的な流れになったり、企業の終身雇用制が崩壊したり、出生率が下がり人口が減少傾向にある事は、実際にマスコミと関係はない。が、問題が表面化する前後、マスコミの発言行為に誠意があったかというのは、マスコミの持っていた安心感を少しずつでも崩していく事になる。
実際には、マスコミが大衆の記憶を司っている限りは、記録ではなく記憶という印象操作で過去のマスコミの発言行為をあいまいにして検証させない事が今まで可能であった。
マスコミはもうひとつ、共通体験も幻想的に作り出す。個人の記憶は曖昧で、テレビなどの視覚や聴覚に直接訴えかけるメディアに原体験を奪われる場合がある。影響を受けやすい中学生の中二病は物語りに原体験を奪われた例だけれど、それほど強烈でなくても、日々の思想を形成する原体験は教育現場と複合して個人的な経験の一部のように刷り込まれる。
マスコミが記録を記憶にすりかえて曖昧な情報として検証させない事で、反証されない記憶はより印象を深める。時には感情論であったり、時には対峙する論理から来る残酷な映像を見せることで、少しずつ方向付けされている。
インターネットは日々の記録をして、長期間残し一般に無料公開され、簡単にアクセスできるようなシステムを多く内包している。インターネットとは記憶を記録に変換するシステムとして、マスコミだけでなく他の企業や政府、団体や個人にいたるまでの全てを監視するものである。監視し記録することで曖昧に済ませていたマスコミの信頼性は、不誠実に対応してきた事実から崩される可能性がある。
日々、人々が日記を日常的に記録することで、自分の本当の原体験とマスコミや創作物によって得られた体験を事実によって明確に分けることができる。簡単に自分の記録をつけ記録にアクセスできるように、HTMLからBlog、そしてTwitterへと、デスクトップパソコンからノートパソコン、スマートフォンや携帯電話へと、インターネットのアクセスが日常のものとなっている。今後はヘッドマウントディスプレーや3DとARの現実との混合、ゲーム機のより簡単なインターネット接続などによって、更に身近になる。
問題は監視されるためには内容情報と現実とを紐付けするシステムが必要になる。それが個人であればプライバシーであったりもする。誰かを監視するということは誰かに監視されるということも意味する。企業や政府に誠実な対応を求めるのであれば、自分も誠実でなければならない。


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